第6章  「止めたい鼓動」

 チャチルへ来てから、曇ったのは初日だけで、
 それ以降、日中は毎日晴れていた。
 古い型のダットサントラックの4駆の座席から、おだやかな
 ハドソン湾を眺めていると、天気ひとつでこうもイメージが
 ちがってしまうものかと思う。初日に初めて見たハドソン湾は、どんよりと
 した鉛色の海がひろがり、北風の冷たさが一層景色を
 荒涼とさせる。もうあと2ヶ月もすると、この海も氷に覆われて
 その上を、シロクマたちがアザラシを求めて、さまようという。
 哺乳動物のくせに冬眠はしないそうだ。おまけに自分の猟を滅多に
 人間に見せない。世界中の、超一流の動物カメラマンがいくら追っても
 アザラシを襲う瞬間を捉えたことが、ほとんどないという。見たことがあるのは
 イヌイットと、エスキモーの種族と、ここチャチルの住民のごく一部と聞いた。

 
 海岸線に立つ「POLARBEAR  ALERT」の看板

 日本から来たアマチュアカメラマンから、一人の大男を
 紹介された。ブライアンとだけ名乗った彼は、チャチルでも
 変わり者として有名なんだそうだ。だが彼は絶滅の危機があるカナディアン・ハスキー犬の
 世界的なトップブリーダーでもあり、町のはずれにあるハドソン湾を臨む高台に
 近所の悪ガキ少年を集めて、石造りのホテルをも作ろうとしているという。
 しかも全て手作業で、だ。重機を使わずに、ひとつひとつ石を積み上げて
 完成させるという。仕事がなく、ただ遊ぶだけの少年たちの更生も兼ねて、と
 いうが、チャチルに住む人たちからしてみれば、たった一人で犬とばかり付き合って
 いる彼が、変わり者に見えるらしい。

 今乗っている車は、ブライアンがカメラマンに貸してくれた車だった。
 これから海岸線つたいに、町から離れるように反対方向に走り、小高いタンドラの丘を
 いくつか超えると、ブライアンが所有する広大なタンドラ地帯に入る。
 そこは、彼の管理するドッグ・エリアで、何十頭ものカナディアン・ハスキーが
 長い鎖で繋がれてはいるが、犬小屋のようなものはなく、
 ほとんど放し飼いに近い状態で飼育されているらしい。
 車は、そこへ向かっていた。
 しばらくすると、海岸線から100メートルほど先の浅瀬に
 錆付いて、まっ茶色になった貨物船が見えてきた。
 聞けば、これもやはり嵐で座礁して、そのままだそうだ。

 
 真夏は、ベルーガ(白イルカ)の遊び場になるという。

 これが、彼の管理するドッグ・エリアの目印のようにも見え、
 まもなくすると、鎖が1本あるだけの小さなゲートについた。ここから先は
 ブライアンの所有する土地だ。
 鎖をほどいて、ちょっとした下り坂に入ると、遠くの方から
 犬たちのクンクン鳴く声が聞こえてきた。車がブライアンのものなので、
 犬たちは、てっきり彼だと思ったのだろう。彼は毎日ここへ通い、
 町のスーパーからもらってきた大量の余った肉片をおよそ30時間に一度のペースで
 エサとしてあげるのだ。
 車はゆっくり犬たちに近づく。

 大きかった。ゆうに1メートルはあるだろうか。太い足に、がっしりとした骨格。
 シベリアン・ハスキーよりは目がとても優しく、比較的体毛が長い。
 首につく鎖を命一杯伸ばして車に近づこうとしている。主人には忠実で、
 集団での生活に溶け込みやすい性格という。
 先住民時代から長い間、極北に住む犬たちはこの土地の大事な交通手段の足として活躍してきた。
 しかし、近代化の波が押し寄せ、犬ソリからスノーモービルや車などに変わってくる。
 そして20世紀に入り、旧ソ連や共産国家との冷戦時代に突入すると、アメリカやカナダが、
 北極圏にレーダー基地を建設しはじめた頃には、先住民の労働が毛皮の交易から、
 重機による鉄鋼業にかかわる仕事にすっかり変わった。西洋文化の
 流入も飛躍的に広まった。
 カナディアン・ハスキーの激減はこの頃から始まったという。
 現在では世界中でもこの種類の犬は400頭もいないという。もちろん日本国内には
 1頭もいない。
   

 ヒロは犬たちにしばらく目を奪われていた。
 クンクン鳴く声に混じり、急にはげしく鳴く声が聞こえても
 最初は特に気にしなかった。カメラマンが、
 「シロクマ?いるんじゃないの?」なんて冗談っぽくも言っていたが
 ヒロは犬の写真を撮ろうと、カメラのファインダーを覗きっぱなしだった。
 「いたぞっ!いたぞっ!」
 あわてて彼の指差す方向に目線を向けた。柔らかな秋の日差しが
 タンドラに当たり、赤や黄色に反射する地面と、その向こうに見えるハドソン湾の
 蒼さ、そしておだやかな空とが、
 鮮やかなコントラストをなしている。その大地と海の境に、白い塊が見えた。
 大地から突き出る石灰岩とは違って明らかに色が白い。
 その白い塊は、2つに分かれ、形が確実なものとなった。シロクマだった。
 しかも2頭いる。
 こちらの頭の中も真っ白になった。最大望遠でシャッターを切る、切る、切るっ
 大きくならない。望遠が足りない。ビデオカメラに取り替えて、オートなのに
 無理やりズームレベルを手で上げる。デジタルズームは、こういうときに弱い。
 倍率は大きいが、画面はモザイク状になってしまう。それでも見えなくなるまで
 回しつづけた。自分の手が震えている。大して重くもないのに。
 心臓の鼓動が邪魔だった。息使いが乱れる。とにかく邪魔に感じる。
 お願いだから今だけ止まってくれっ 画面が揺れる!

 そもそもシロクマは音もなく歩く。
 だからこのドッグエリア内では車からは絶対に降りないように言われていた。
 もし、車から離れているときにシロクマに出くわせてしまえば、
 銃をもたない者に命の保証はない。でも、今シロクマとの距離は約200メートル。
 遠かった。危険を承知でもダッシュして近づきたかった。犬たちがワンワン吠える。
 昨年は、一度に7頭も襲われたらしい。地球温暖化で、ハドソン湾に
 氷が張らず、シロクマたちはその氷を渡って好物のアザラシを捕りに行けない。
 肉や食べ物の匂いのするチャチルの町や、ドッグエリアに出没するのは
 そのせいらしい。
 
 カメラでの最大倍率


 ビデオカメラからのキャプチャー画面。すこしボケてしまった。

 ・・・夢のような時間は、1分程度だった。
 タンドラの向こうにシロクマが消えてしまったあとも、しばらくその方向を
 見ていた。地上最大の肉食動物、シロクマは視界に納まりきれないほどの
 広大な大地の中で、人間なんて「へ」でもないような雰囲気で
 のっそり、のっそりと歩き去ってしまった。チラっと、こちらを見たかも
 知れないが、多分気にもしてないだろう。視力は人間よりは良いだろうから、
 一人の日本人が、200メートル先で、車の中から必死な形相で
 ファインダーを覗いていたのも見えていたのかも知れない。と、思ったら
 窓の外へ顔を出して、大きく何度も深呼吸をしたくなった。
 そうすれば、たった今出会った彼らと同じ空気を吸える。自分とシロクマが
 一瞬でも視線が合っていたんだと感じて、なんか
 同じ空間にいれたようで、とても気持ちがざわめく。落ち着かせるつもりが
 ますます乱れる。

 憧れにも似た畏敬、ずっと感じていた脅威、嬉しさとナゼか一抹の悲しさ。
 見れば見るほど覚える、同じ生き物としての完璧なまでの敗北感。
 200メートルも離れているのに感じえる圧迫感。
 極北に君臨する王者の風格が、やすらぎすら感じさせる。
 白く輝く毛並みが本当に美しい生き物だ。毛の1本1本は、実は無色透明で、
 しかも地肌はまっ黒なのに。
 季節、日程から考えても、諦めていた自分のシロクマに対する感覚は、
 マグマのように熱く吹き上げた。
 
 1万キロ離れた日本から思い描いていたシロクマへの想いは、
 数百メートル先の視界で、突如現実となった。
 あどけない顔や、おどけたような仕草は、写真集の中で、だけだった。
 可愛いという印象はチャチルに到着してから薄らいでしまったし、
 エスキモーミュージアムで見た剥製の大きさが、未知の哺乳動物を強烈に
 アピールしていたのを思い出す。

 帰りの車の中で、あのたった1分間で感じた自分の感情を思い返した。
 いろいろな気持ちが一度に出ると、人間はどうやら震えるらしい。
 涙はしばらく経ってから溢れてきた。
 
 
                             つづく
 
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