第11章  「ケンモア」


  そのダイアリーの持ち主はキムさんと言った。
  韓国人の4人に1人の苗字は「キム」さんと聞く。
  彼女はバンクーバーに滞在する留学生だった。
  9月いっぱいまである休みを利用してカナダ西部を旅行中らしい。
  3日前にバンフ入りし、あちこち散策しながら
  気に入った景色に出会うと、背中にしょったザックから
  色鉛筆を取り出しては、旅のために用意したダイアリーに
  描くという。昨日、ボウ・リバーのほとりで一休みしたあと
  宿に帰ってから失くしたことに気づいたらしい。
  夕刻に戻ってみると、小雨の中、ベンチに置いてあった袋を
  見つけ、表書きを読んでみて喜んだそうだ。
  彼女はそのダイアリーを大事そうに抱えながらカメラを出すと
  「記念、記念っ」といいながら、近所の人に手渡した。
  すかさずヒロも自分のカメラを出して一枚撮ってもらった。
  
  彼女は一枚描いている途中だったので、しばらく経ったら
  下りのゴンドラ乗り場で待ち合わすことにして、お互いまた
  自分流の楽しみにふけり始めた。
  フシギなこともあるもんだ。ある程度人通りのある町中のメインストリートで出会うなら
  まだ理解できる。でも出会ったのは、数ある観光名所の中でも
  標高2500メートル以上にあるせまい山頂だ。しかも30分ずれただけでも
  あり得ない偶然だった。やっぱり今回の旅は何かフシギなことが多い。
  乗り場までのデッキを歩きながらこんなことを思っていた。

  途中、この辺りで出会える野生動物を紹介する看板をみながら
  目線で周りを探していると、カメラを持った人々が何かを狙っていた。
  「ピカ」だろうか。大きめのリスだった。
  
  このリス、サービス精神旺盛なのか、人間に慣れているのか、
  かなり近いのに全く警戒していない。
  そのうち大分近くまで来て、口にほおばった木の実をガリガリ
  し始めた。慌ててカメラを一眼レフに切り替える。
  
  チャチルで苦労して野生動物を探したり、やっと見つけて
  興奮したことを考えると、コイツなんか、
  もう野生じゃないのかなあ、なんて思ってしまう。チャチルではリスは
  みかけなかった。その代わりカナダグースの大編隊をいくつも目撃できた。

  キム・ヘイジンさんの愛称は、ジニ−という。
  ジニ−はヒロより早く乗り場に来ていて、しかも
  またまた風景を描いていた。
  コーヒーを渡してヒロが横から覗こうとすると、照れながら
  自分の今まで描いたデッサンを紹介してくれた。
  ふと周りを見渡すと、興味を持ったほかの観光客も
  覗いていた。矢継ぎ早に質問してくる。英語、日本語。ジニ−は
  日本語が全くダメらしく、ヒロがかわりに答える。タレントとマネージャー
  のようだった。日本人観光客から空路の状況を聞いた。
  台風直撃の関東地方。テロの影響で日程がメチャクチャ。
  やっと着いたホテルからは一歩も出れず、余分な宿泊費は全て自腹らしい。
  日本からのツアーはとかく高級ホテルを利用する。たった1泊だけだから
  と思って、最高級のバンフスプリングスホテルのOPを
  予約したその人は4連泊中で、他のホテルに移ろうにも全て満室だそうだ。
  帰国便の手配が取れるまで待機するよう添乗員に言われているという。

  そういえば、自分の帰国便もまだ取れてなかった。
  エア・カナダからの連絡待ちで、当初予定の9月19日発は欠航、
  翌20日、22日は既に満席状態だった。21日ならなんとか・・・と
  カルガリー空港のカウンターで言われていた。
  僕らの背中越しには、ゴンドラターミナルの脇に立つ大きなメイプルリーフフラッグが、
  真っ青な空の中で心地よい風に揺れている。
  半旗じゃなければこちらの気分も心地よいものになれるのに。
 
  ジニ−とはこのあと昼食を一緒にしたあと、翌朝はやくバンフを
  離れるため、準備をするということで別れた。連絡は今もときどきメールが
  来る。来年の2月にはソウルへ戻るそうだ。

  この日は午後から、となり町のケンモアを訪れた。
  この町の名は日本語表記だとどちらなのだろう。ケンモアとキャンモアの両方が
  日本語に記載されているのが多い。正確な発音はこの間の感覚だと思うが、
  どちらにせよ、日本の間違ったカタカナ教育のおかげで日本人の英語力、
  特に発音力が滅茶苦茶であることは間違いない。先人達のミスリードで
  世界屈指の海外旅行客が多い国の人々が、旅先で大変な苦労をしている。
  今回の場合は、カナディアンの発音がどちらかというと「ケン」に聞こえるので
  「ケンモア」という表記に統一した。ちょっと話がづれてしまった。
  カルガリーからバンフへ行く途中にあるケンモアは
  バンフより小さい町なのに、どの地図にもバンフくらいの
  大きなマークで位置が記されている。ここはアルバータ在住の
  芸術家が多くあつまり、住んでいるアーティスティックな町。
  また、カルガリーオリンピックでは、カナダが強いノルディックの
  会場にもなった場所で、スポーツ施設が充実している。
  そしてこの日の目的は2つある。、ロッキー山脈屈指の名峰、アシニボイン山へ
  飛ぶヘリツアーのスタート地点を確認すること。もうひとつは
  カナダでも有名な手作りのソープショップへ行くことだった。

  ケンモアへは車で15分ほどで着いた。
  町のシンボルにもなっているスリーシスターズと呼ばれる3連峰がキレイに見えた。
  

  ヘリツアーのポートを見つけて、
  町並みへ車を走らせると、バンフとはちがってにぎやかさは
  さほどないが、落ち着いた雰囲気と、多すぎない人通りに心がなごむ。
  車をとめて散策がてら町を探検した。
  
  街路樹が鮮やかに秋色に光っていた。
  道行く人々はみなゆったりと構えているように感じた。
  通りに面した店も、みやげ屋さんより生活に関わる店が多い。
  スーパー、酒屋、金物屋、写真屋、そしてレストランにカフェ。
  観光地の雰囲気はあまりない。贅沢をしなければ、住みやすそうな町の印象だった。
  探していたソープショップは、メインストリートの
  なかほどにこじんまりとあった。
  ところが。
  クローズの看板。月曜日は定休らしかった。ほかの行きたい店も
  ふくめて、明日またヘリツアーの帰りに寄ってみることにした。
  しばらくベンチに座ってボーっとしていると、自分がこの町に
  なじみ、溶け込んでいくようで、このボーっとするのが
  好きになってきていた。知らない人でも
  目があえば挨拶するし、話し掛けるのもすっかり慣れてきた。

  夕方から天気は急激に変わった。いわゆる「山の天気」。
  バンフに帰るころにはシトシトと雨が降り始めた。
  B&Bに戻る途中で早めの夕食を取り、コウヤマさんに電話を1本入れた。
  宿泊しているB&Bは松林の中にある。雨が降ると、雫が松の細い枝をつたって
  落ちるので、顔に当たるとかすかに松の香りがしてくるようで
  感触がやさしい。ときどきリスや、エルクの遠吠えが聞こえる。
  夕刻と朝は特に鳴くことが多い。
  
  この夜は、コウヤマさん宅で髪をカットしてあげる約束をしていた。
  部屋に戻り、バゲージの中からタオルでグルグル巻きに
  してあるハサミを取り出して準備を始めた。
  
  雨は窓の外でやさしく降っている。


                            つづく



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